繊細ヤクザ、SNS時代の終わりを待つ日々

※香ばしいので後で消すか直すかもです

 

SNSがほとんど閉鎖的なコミュニティだった頃に比べると、今は逆に使っていない人が珍しいぐらい発展してしまった。ダイヤルアップ接続時代からインターネットの海を泳いでいる私はその変わりようにただただ「ほげ〜」と眺めることしかできない。

思春期の私はお絵描きBBSで見も知らぬ他人に自分の稚拙な絵をパクられて「なぜもっと上手な絵を真似しないんだ」とショックを受けた。現在もトレパクや盗作は悲しいことにあちこちで行われており、インターネットで出くわす悪意はそう変わっていない気もする。

 

話題のTwitterも以前は平気で好き勝手呟けていた。今はイマジナリークソリプが怖くて一切呟いていない。誰もお前のツイートなんて見ねえよ、と思うだろう?昔はそうだった。タイムラインはフォローしている人のツイートだけが淡々と流れていた。今は頼んでもいないのに一切関わりも興味もない分野の知らない人のツイートが轟々となだれ込んでくる。通知が来て「いつも応援して下さっている皆様へ。」と表示される。誰なんだあなたは。応援どころか今初めて名前を見たのに、いきなり重大な報告をされても困る。次第にTwitterの通知ポップアップはまとめて右へスライドするようになった。

一番心が疲弊するのは、個人のお気持ち表明ツイート(※とてもバズっている)である。私は何を隠そう繊細ヤクザなのだが、繊細な人が満を持して発表した「こんな人間or社会は最低」という糾弾系ツイートを見るとがくりと膝をついてしまう。どうしてそんなに、憎しみと怒りを鋭利な言葉でぶちまけられるんだ。そんなにも辛い思いをしてきたのか。ならばそれが気の毒でならないし、繊細ヤクザとしてはその怒りの対象が自分のような愚かな人間に向いているように思えてならないのだ。こんな言葉を言われた。女性としてとても傷付いた。こんな扱いを受けた。男性として理不尽に思う。共感を示す「いいね」の数が多ければ多いほど、その攻撃力は増す。私はすべてのバズツイに書かれた言葉やエピソードを書き留めて、それを地雷として記憶し、決して自分が誰かにそのようなことをしてしまわないように注意しなければならない。もしやってしまったら、その時点で私はもう多くの人から軽蔑される存在となるのだ。なんと恐ろしいことだろう。社会から抹殺されるかもしれない恐怖と隣り合わせの毎日は、生きた心地がしない。

だからコミュ障が加速したのかもしれない。職業を聞けば個人情報を軽々しく聞くなんて無神経だと怒らせるかも。年齢、出身地、恋人の有無、未婚か既婚か、一人暮らしか実家住まいか、趣味、好物、苦手なもの、どれを聞いても地雷になり得そうで何も聞けない。性別ですら見た目通りに受け取ることはできなくなってしまい、男性あるあるも女性あるあるも言えなくなってしまった。なんと難しい世の中なのか。本当に天気の話しかできないのではないか。それすら何かしらの地雷になりそうで怖い。

無論明らかな悪意や差別には毅然と立ち向かうべきである。私もそうしたい。だけど、そんなつもりで言ったのだろうかその人は、と思う内容もよく見る。何も深い意図なく放った一言に、それほどまでに傷付き悲しまないでくれ。寛容であることは罪なのか?自分は一度も人を傷付けるような失言をしたことはないのか?君を許そう、だから私も許してくれ。お互いに一発ビンタであとはひしと抱き合ったのでは駄目か?そんなに大勢の「味方」を引き連れて、私を完膚なきまでに叩きのめさなければ、未来永劫私は君に許されることはないのか?繊細ヤクザは短く脆いナイフを構えてブルブルと震え、今日も見えない敵と闘っている。

私は過去に山ほど失言をしているが、いずれも相手に平謝りに謝り撤回や訂正をしている。だからもし相手が失言しても、そうしてくれたら許したいと思っている。失言を肯定している訳ではない。人間ができていればそんなことは滅多にしない。できるまでの過程にたまたま立ち会ったんだと解釈してくれたら、人として長い付き合いができるのではないかと夢見ているのです。甘えですかね。